インドネシアでの組織の活性化 【スペシャリストかゼネラリストかという問題】

2014/09/09

バリ島の木彫り屋

ゼネラリストは広く浅く知識を有する人ではなく、幅広い経験から事象を多角的に客観的に判断できる能力を有する人であり、スペシャリストとしての経験を持つ人がゼネラリストに転向するというのが本来の在り方だと思います。

組織の一員として唯一必要な条件

人間誰しも長所と短所を持っており、短所に出来る限り目をつぶって長所を見てあげるのが良好な人間関係を保つ秘訣であり、そしてこの長短の帯の長さの差が短い人間のことを一般的にバランスの取れた人間というのだと思います。

身近な仕事関係で言えばコーディングが得意な技術者、システムをデザインしプログラマーに指示するのが得意なシニアSE、客先でFace to faceで導入支援を行うのが得意なインプリメンテーターも居る。

だからこれらのアンバランスな能力を持つ個の集団をチームとしてバランスの取れた状態に保てればいい組織になります。

僕が考える、組織を構成する一員として唯一必要な条件は「自己中心的でないこと」です。自己中心的な構成要員が居ると「悪貨は良貨を駆逐する」ように、周囲に悪影響を及ぼしていく。

個々人に短所があるのは当然、怒りっぽくてもいい、マイナス思考でもいい、口下手でもいい、頭の回転が遅くてもいい、これらは組織の中でうまい具合に解消されていくし、逆に触媒作用でプラスに働くことすらある。

ただ一つ「自己中心的」でさえなければ、その他の短所は周囲との関係で解消されていく。そもそも短所Onlyの人間は居ないので、お互いの長所をバーターしながら組織はゴーイングコンサーンしていきます。

スペシャリストかゼネラリストかという問題

諸事情により構成要員のうちのどこかのピースが欠ける場合には、その補充としては同じような特性を持つ人を採用することになります。

ボランチが負傷欠場した代わりにアタッカーを投入する監督は居ないでしょう。但し必要な時に必ずしも必要な人材が居るとは限らないため、必然的にゼネラリストであるオールラウンドプレイヤーが重宝されることになります。

この現代サッカーの本質とも言える選手のオールラウンダー化は、実は日本人に非常にマッチしたシステムではないかと思います。

20年くらい前にもてはやされた日本的経営の三種の神器と言えば企業別組合、終身雇用、年功制であり、この制度によってプロパーのマルチプレイヤーを育て、組織の幹を太く強固にしてきましたが、これが可能であったのは右肩上がりの成長という大前提があってのことでした。

だから低成長期に入ると、かつては組織の成長に対する功労者であった人が逆に負担となってしまった。

その理由としては高騰した労務費の問題があるんでしょうが、同時に個人の特殊性が平面方向に広がりすぎてしまったせいで、低成長という外的要因を克服するための組織全体の活力が薄くなりがちになるのではないでしょうか?

横に広がりすぎるとピンポイントに必要な能力が低下しますので、低成長期に時代の切り札となりうるような成長エンジンが点火しにくくなるんだと思います。

小規模な組織の中で組織の活力を最大化するには、個人が得意な分野で能力を発揮させて、それでもって組織全体でバランスが取れている状態だと思います。

「何事も経験だ」と言って本人がやりたくないことを強制することは、長期的には意味があると思いますが短期的な組織の成長という点からはマイナスでしかない。

インドネシア人技術者はゼネラリストよりもスペシャリストになりたい傾向が強く、言ってみれば苦手な分野を「勉強」と称して強制されたくない。

必要に迫られてこれをやらせると、いともあっさりジョブホップするので組織にとっては最悪です。

だから管理する側の人間には、彼らが「自己中」でない範囲で「わがまま」を聞いてあげるだけの寛容さと忍耐力が必要になります。

新聞紙は25回折るとその厚さは富士山の高さにまでなり、42回折ったら月を超え、48回折ると太陽に到達、81回でアンドロメダ銀河まで逝っちゃうそうです。

これは新聞紙の厚さが0.1mmであれば0.1の42乗=440,000kmとなり、地球から380,000kmの距離にある月に余裕で到着するという理屈ですが、数多く折ろうとすればするほど、長い(広い)紙を使う必要があります。

実際には新聞紙も葉書も42回も折れませんが、紙を折り重ねたときの幅を成長と考えると組織の規模(紙の面積)が異なる大企業と中小企業とでは人材戦略(人の活性化)が異なるのは当然だと思います。