車は最終形より改良が重要であるのと同じように努力は結果よりも過程が重要であるということ。

消費者は改良の過程を評価する

2016年型Avanza Velozが納車されて2週間ほど経ちましたが、売却済みの2012年型Avanzaと同じ感覚で運転できるとはいえ、微妙に改良されている点があります。

  1. ハンドルが軽くなった
    ⇒華奢な女の子でも運転しやすいと思いますが、Tolで時速100km出したらどうなるかちょっと心配。ハンドル回したくないのに回っちゃったみたいな・・・・。
  2. エンジンブレーキが滑らかになった
    ⇒前のは下り坂に差し掛かるとウィウィーーンと重い音がしてギアが無理やり切り替わるので、そのたびに壊れるんじゃないかと心配しました。
  3. 燃費が向上している
    ⇒新車という条件を考慮しても明らかにガソリンがなかなか減りません。

次の車の買い替えは4年後の2020年を予定しているのですが、その頃もしAvanzaの新モデルがまだ生産されており、運よくこのブログも続いていればw「2016年型に比べて2020年型は若干改良されて・・・」という記事を書きたいと思います。

考えてみると、車は生産終了の時期が未定であるうちは最終形というのはなく、改良の積み重ねの産物であって、あるべき理想の最終形に達することを目標とするわけではなく、現モデルを改良して消費者はその改良の過程に対して満足したり不満を持ったりするわけです。

何のために努力をするのかという根本的な問題

以前友人と飲んでいるとき、努力と成果について議論したことをふと思い出しました。

友人
君ならサボってばかりいるけど結果を出す部下と、努力はするけど結果が出ない部下のどっちを評価するか?
desk
自宅作業場(テラス)

と聞かれて言葉に詰まったのですが、その理由は会社としては結果を出す部下が評価されるのは当然としても、だからといって努力しても結果が出ない部下よりも評価が高いと言えるのだろうか、というのが何か引っ掛かかったからです。

何を言いたいかというと、例えば工場の間接部門で発生した経費を製品の製造原価に按分する際に、単価が100ルピアの製品と単価が1jutaの製品に対して、単純に生産数量比率で按分すると不公平な結果になるのと同じように、結果を出すために費やす手間も条件も違う2人の部下に対して、評価を結果量比率で按分するのは不公平だということ。

今日は日曜日、朝いつものように嫁さんをCidengの教会に送った後、自宅アパートのデスク(テラス)でPCのフォルダ構成とファイルの整理をしていると、昔バリ島で仕事をしていたときに、常に忘れないように車の天井に貼ってあった言葉を書いたテキストファイルが見つかりました。

結果よりも過程が大事であり自分が過程を楽しんでいれば誰も同意してくれなくてもいい。

当時仕事がうまくいかず「努力しても結局報われないと意味がないんじゃなかろうか」というネガティブな気持ちになりがちな自分を奮い立たせるために書いたのだと思いますが、10年経った今言葉を整理するとこういうことなんじゃないかと思います。

努力とは結果を求めてするものではなく、過程を自己満足するためのものであって、結果が出たから努力して良かったと思うのではなく、過程の中で今日はこれだけ進歩したという喜びのために努力をする。

誰にも認められなくても、全然結果もついてこなくても、努力の過程が満足できればそれでいいのであって、これって車が毎年改良されるのと同じことだと思います。

どんな車もいずれは生産終了になる運命ですが、改良の過程で消費者を満足させたという事実は歴史に残るわけで、もうそれで十分なわけです。

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